オズの出典を読んだという話
先日、オズマフィアの出典となる物語を読みました。
「オズの魔法使い」と「幸福な王子」は文庫本のようにしっかりとした文章で書かれたものを読んだことがなかったんですよね。
読んでみたところ作中キャラの印象や設定について少し思うことがあったのでちょっとだけ考察など。
オズの魔法使いを読んで思うこと
そもそもなぜオズの3人が支配者層で、他のおとぎ話の住民も支配者層なんだろう、という疑問が片付きました。
原作のライオンもカカシも木こりも、各地で請われて統治者になってたんですね……知らなかったです。
だから赤ずきんや長靴をはいた猫やハイジが支配者層であるのも、それに足並みを合わせたってことかな。
アクセルがなぜこんなにも恋愛に不器用で寡黙なキャラなのかっていうことも自分の中で納得がいきました。
木こりはかつて人だったが今では全身ブリキの身体となり、愛した人を想う心を失ってしまったがゆえにそのあたたかい心をとり戻すためドロシーと旅に出た。
旅の末、大王から与えられたのはおがくず入りの偽の心。
偽物だから自分気持ちの持ちよう次第で本物の心にも偽物の空っぽの心のままでもあると。
たしかにアクセルに心はある。
あるけれど、完全なものではないので人並みに人の気持ちを慮りながら言葉を口にすることも、かつて人だったころのように恋愛をすることもできないってことかな。
ドロシーのことさえ忘れてしまうほど長い時の中で身につけた処世術が、フーカと出会った当時のアクセルの他人への態度なんだろうと。
まあこれに似たようなことを本編でアクセル自身の口から語られていたのかもしれないですが。覚えていない。
それと、原作のドロシーは幼い子どもらしさによって自分への利益がない他者の話への無関心さがよくよく表れていて、その冷淡さが面白かったですね。
身勝手で、残酷で、あくまで子どもらしく、ただただおうちにカンザスに帰りたい。
トトの描写も身勝手で自由気ままな犬で、ドロシーによく似通っていました。
ソウがドロシー以外の他者を顧みないためにハーメルンを躊躇いなく犠牲にしたところ、それに対してドロシーが反省の色を見せないところ。
幼い少女と犬であるがゆえに反省などなくて、ドロシーとソウにとってオズの3人以外の自ら作り出した者たちは街の中に住むお人形であって、壊すも生かすも自分次第のどう取り扱おうが自分の勝手のおもちゃなのではないかと。
それなら罪を反省する必要も償う必要もないわけですね。
子どもって残酷。そしてそこがいい。
幸福な王子を読んで思うこと
この話はほんとに、どういう内容かは知っていたけれど読んだことはない名作代表で、今回読んでみてなるほどこれは名作だわ……という感じでした。
自分を犠牲にしてまで王子に尽くして果てには死んでいったツバメの姿にマンボイを重ねてみましたが、そこまでして仕える対象がドリアン・グレイなことに、ほ~~~~????(疑問)という感じはある。
オスカー・ワイルドの3人を主役としたコミックがあるみたいなので、それを読めば何か少しでもわかるかもしれないです。
それと、幸福な王子は身を寒々しくしながらも心は温かくなっていくのに対して、アルファーニは身は寒々しくもなく心も冷たくはなってはいないな? と。
春を売って身も心も寒々しくなるほどの温かさをそもそも持ち合わせていないのかもしれない。
というか彼にはアクセル同様に心らしい心がないように思える。
思い違いかもしれないですが。
彼はたしかに訪れるお客さんに身を削って幸福を与えていたけれど、彼自身は幸福な王子であれたのか?
そんなことを考えたりもしました。
もう一度オスカー・ワイルドの面々の会話を見るとまた違った印象になりそうです。
次は「ドリアン・グレイの肖像」を読みたいのですが、読み進めても気持ちが入らなくて挫折したんですよね。
3回も映像化されてることですしどれかを見ることができたらいいな……。
おわり